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2010年11月30日

地に帰ると言うこと。そこは地球であること。

長く暗い闇の中をさまよい続けています。。

生活は乱れ。

心身ともに、とてつもない倦怠感と、すぐに足を引っ張る暗い鬱。

血液検査でドクターストップのかかった肝臓の値は正常MAX値の4倍強。

それでもやめられない酒。。

体の不調からか?以前とは比べ物にならんぐらい量が飲めない。。

体に鞭打って、以前10年勤めた会社の後輩達の誘いで飲みに行き、

父の手術日の朝に願掛けで辞めて、そのまま吸えずにいたタバコをすった。

ずっと我慢に我慢を重ねてきたが、

なんてことはない。

ただ、煙を吸うだけ。

煙が命を巻くも救うもあるわけがなく、

ただ、煙が肺という臓器に空気と一緒に入るだけ。

なんてことはない。

そして、もう今となっては吸うも吸わんもどうでもいい。

あえて吸い続けたいとも思わない。



仕事は、大阪に来てから転職した零細企業で再開を試みている。

参入可能な案件にいろいろお話をさせてもらっているが、

まだ、明確には決まらず。

それまでは、家系的には半端なく厳しいが、心身不調で12月頭までは

休職ということにしてもらっている。

仕事をする気にはなれないのが実際。

今のITに関する仕事に拒絶反応すら覚える。。

が、仕方がない。

家庭・個人環境もつらく厳しい。

いっそ出家したいと思う夜な夜な。


こんなちっぽけな自分でも世界のことは自然と頭に入ってくる。

自分の家庭環境はもう崩壊寸前だ。

でも、こっちのほうはいざとなれば何とかなるだろう。

でも地球の環境的問題はもう、いざとなってもどうしようもない状況に

差し迫っている。

最近はそういう記事や書籍ばかりに目がいく。

以前から(nagiを授かってから?)環境問題には大きく関心があったが、

父をなくしてから、一段と想うようになった。

父の四十九日を終えて、大阪に戻る途中に阪和自動車道からいつも見える風景。

山の頂上に立ち並ぶ風車の数々。
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自然の風から人間が生き、栄えるためのエネルギーをもらう方法のひとつ。風車。



悲しみにくれている時間がないことはわかっている。

人類も今までの利便性・既得権にしがみついている場合ではないことは、

誰もがわかっているはずだ。

地球上の生物が全滅しても、人類が生き残るということはありえない。

地球上の生物と共存共栄できるすべを、一瞬足りともはやく見つけ出し、

それを遂行しなければ、人類だけでなく、地球が滅びることはもう

実は世界の誰もが気づいているんだろう。



これは、父が最後に見たであろう朝日。(意識はほとんどなかったが。。)
 IMG_0239_1.jpg

他界する前日の朝、私は父の顔とともに、この朝日を眺め、

父に語りかけたすばらしい朝日。

ただ、このすばらしい朝日が、

これからも人類に未来永劫顔を出してくれるという保障は、

ない。




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投稿者 nagi dad : 01:45 | コメント (0) | トラックバック

2010年11月02日

永遠の別れ

暗い話になってしまいますが、

今まで皆さんにはたくさんの暖かいお言葉を頂き、

勇気を頂いてまいりましたので、悩みに悩んだ結果、

この場でも報告させていただく事にしました。



わたくしの親愛なる父が去る2010年10月8日の早朝に永眠いたしました。

父は一昨年のちょうど今頃に検査にて、狭心症である事が判明しました。

カテーテルによる処置の出来ない冠動脈の根元に問題があり、

バイパス手術を受けました。手術は成功しました(と医師は言ってます)

が、集中治療室に移動直後に急性心不全をおこし、心停止直前の状態となりました。

どうにか蘇生し、呼吸器等の力をかりて意識も戻り、記憶もあり、笑顔を見せて、

車イスにのり、一時期は呼吸器をはずせるところまで回復しましたが、

何度も肺炎やヘルペス、呼吸不全、浮腫(胸水や腹水)と厳しい合併症で、

5~6度は死の淵をさまよいながらも頑張って生き抜いて来てくれてました。


今年の9月中ごろに長期で私は父のところに行きました。

父も心配ですが、ずっと付き添っている母も心配でした。

その時はまだ父の状態も落ち着いてはいました。



10月入ってすぐ、母を通して担当医より私に呼び出しがありました。

母や妹に聞く限り、今までの厳しい状況を考えると何故か理由が分かりいませんでした。

慌てて仕事そっちのけで行きました。

医師と看護師長からかなり厳しい状況である事を伝えられました。

その時は、私がいつも厳しく質問・提言をしていた為に、

「調子が低下したらとにかく私には先に伝えておかないと揉める」と

思っての事と判断しました。

それほど、今までのひどい状況を考えると対して状態は悪くないと思えたからです。

ですが、それは勘違いでした。

本当にもう危険な状態でした。

今回は一人で車で向かいましたが、今までとは違う胸騒ぎを覚えた事を今は思い出せます。

弟と妹と私と母でほとんどつきっきりで1週間病院にいました。

とにかく浮腫(むくみ)がひどく、急激に尿や便が出なくなり、

血圧が低下し始めました。

今までは、「サチレーションが低下する」「意識レベルが低下する」等がありましたが、

今回は血圧低下がネックでした。

私がついたときにはすでに強心剤を点滴されており、それもどんどん追加投与されている状況でした。

最初ははっきり意識もありました。が、利尿剤も効果が出ず、

とにかく浮腫がひどく、本来の父の3倍ぐらいの体格(体重)になっていたのではないかと思います。

尿も便もまったく出なくなり、

段々意識レベルが低下して、呼吸も自発が激減。

胃ロウ(口から食事出来ない人の為に腹から直接胃に穴をあけて、

中部を設置して、そこから栄養物や薬を投入できるようにする仕組み)から、

大量の逆流が始まりました。

緑の胃液から、どす黒い物に代わり、どんどん溢れてきました。

もうこの時点で胃腸がダメになっていたのでしょう。。

そして、10月8日の早朝に母と妹と妹の息子と弟と私の5人が見守る中、

苦しみに耐えながら息を引き取りました。

壮絶でした。

当直でいるはずの医師は片目の瞳孔が開き厳しい状況になっているにも関わらず、

部屋には来ませんでした。看護師に言って読んでも。。。

もう灯の切れようかと云う時に現れて、今更ながら、

大きなモニター(脈、血圧、サチュレーションを計測する)を持ってきて・・・

死を宣告する為の最後の道具だったんだと今になっては思います。

胸が動いているのは、呼吸機に無理やり動かされているだけでした。

約2年にわたり、ずっと付き添ってきた母。

毎晩長くても3時間しか連続して寝る事が出来ない日々、食べることも飲む事も出来ず、

話す事すらできない、かゆい部分を自分でかくことすらできない父を、ずっと励まし、

冷たい医師や看護師の非道から父を守り・・・本当に長かった・・・

朝日が出始めた病室で、崩れそうになる母の背中をさすり、

一緒に父の手を握り締めて、涙をこらえるのが精いっぱいでした。

65歳でした。手術日を考えると63歳です。

若すぎました。手術直前まであんなに元気だったのに。



最後の2年がとてもみじめで、つらく、苦しいものとなってしまいました。

クソ真面目に生きてきたバカ正直な人間が、何故最後の最後にこんな苦しみを味合わなければいけないのか。

全てに怒りと憎しみを感じています。

無力な自分に情けなさを通り越して、反吐が出るぐらいです。

処置や処方、思い返せば初期診断に関しても疑問や怪しい面は多々あり、

多くの親族等からも「医療ミスだろう??」と指摘されました。

そのあとに続く「何故そのままだまってたんや??」という裏の言葉が、

私にヒシヒシとそして氷の刃のように襲ってきました。

それに何もこたえららず、そして何より父を守れなかった自分の情けなさに

本当に嫌気がさしてしまってます。

通夜・葬儀を執り行い、もうすぐに四十九日です。

あっという間です。

結局まだ本当に泣く事が出来ていません。

がっつり泣きわめいて、多酒のんで吠えまくり、暴れまわれば

少しは楽になるのか・・・

でも、酒も酔えません。体調が悪いのか疲れは来ますが、意識は冷静です。。

仕事も再開していません。

精神的にもとても不安定です。

でも生活も瀬戸際です。。焦りと儚さと空しさと・・

頭の中は同じ事がぐるぐる回っています。

いずれ、時が全てを忘却の彼方に持って行ってしまうのでしょう。



皆様にはたくさんの励ましのお言葉を頂き、

本当にありがとうございました。とても感謝しております。

残念ながら、父と家族の想いは天に届く事はありませんでしたが、

残る人間は前を向いて生きていくしかないと理解はしています。

少しずつ進んで行きたいと思います。

また、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

投稿者 nagi dad : 20:58 | コメント (11) | トラックバック